追悼・丸木位里さん

松江 澄

 

 労働運動研究 199512月 No.314

 

 丸木位里さんはこの数ヵ月前から病床にあった。年はすでに九〇歳を三年以上すぎていた。私は予定していた一一月上京の折、ぜひお見舞に行こうと思っていた。しかし丸木さんは私を待ってくれなかった。

 このたび上京して埼玉県東松山市の丸木美術館に丸木俊(丸木夫人)さんをたつね、位里さんの霊に花をささげた。大きな写真は変らぬ位里さんそのままだった。

 俊さんと久し振りに会ってつもる話はつきなかった。

 ぜひ食事をといわれて食卓につき、むかし位里さんと食事するとき、「松江さん、ちょっとやろうか」といって酒を持ち出して昼間から二人でちびちびやった思い出を話すうち、私の前に酒があった。久しぶりでなつかしい食卓でちびちびやりながら、俊さんと昔話にふけった。

 私が位里・俊さんと初めて会ったのは一九五〇年の米軍占領下、すでに画かれていた「原爆の図」(一〜三)を広島で、当時数少ない会場が、米軍を恐れて貸してくれないときいて、四九年反核集会をひらいた私たちは、さいわい原爆ドームのすぐ南にあった「五流荘」と呼んでいた所有者も分からぬかなり大きな木造の小屋で、この年の八・六集会をひらいていたので、ここを使おうときめた。

  初めて広島で展示された「原爆の図」を見に訪れる人々は、日増しに多くなった。見る人すべてがまだ日の浅い「あの日」を思い起して感銘したが、中には耐え切れず途中で立ち去る人もいた。以来、丸木さんと私との交わりは始まった。

 丸木さんたちの筆は「原爆」だけにとどまらなかった。生ある者を無残に殺りくする者たちから「南京大虐殺」、さらに世界へと追求して、とどまるところを知らなかった。彼らは筆で反戦反核を闘いつくした。時に訪れる私と位里さんは茶わん酒を傾け合いながら、お互いの運動を語りあうのだった。

 いつか『中国新聞』の記者が「五流荘」の所在をきき、近くの寺などでその所在を確認しようとしたが、分からなかった。先年、私のよく知っている広大の教師(被爆建物調査)が突然電話して、私のいう「五流荘」の写真が見つかり、それが展示してあると知らせてきた。

 私が急いでかけつけて見た展示の中にまさしくあの「五流荘」があった。私の中で五〇年近い前の「原爆の図」がよみがえった。それは、被曝地に入るのを避けたアメリカ軍に代わったオーストラリアの兵士が写したものだった。